何といってもこの歌。
富士を歌った長歌の反歌(短歌)です。
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
この歌の長歌は、
「の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺は 」
意味はだいたい、
[長歌] 天と地が別れて出来た時からずっと、神々しく、高く壮大な、駿河の富士の高嶺――その高嶺を、天空はるか振り仰いでみれば、空を渡る太陽もその背後に隠れる程で、夜空に輝く月の光も見えない。雲もその前を通り過ぎることを憚る程で、季節にかかわらず雪が降り積もっている。いつの代までも語り継ぎ、言い継いでゆこう。霊妙な富士の高嶺のことは。
[反歌] 田子の浦を通って、視界の開けた場所に出ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り積もっていた。
山部赤人は、
奈良時代、聖武天皇の頃の歌人です。
万葉の歌人たちは聖武天皇の頃に活躍した人が多く、憶良、人麻呂、この赤人もそうですね。
赤人を「叙景」の歌人といってしまうと、やや表面的というのか、単純すぎますが、万葉集の特徴は「長歌」にあり、長歌は景色や言い伝えなどの事実を述べるのに適していた形でした。
その事実を受けて、感慨や感動を形にしたものが反歌(短歌)であって、こののちは「短歌」が主流なってゆきます。
万葉集は形式においては「長歌」「短歌」のふたつがあった時代、
内容においては、天皇の歌が主にそうであるように、天皇の御幸などにおける行事、出来事の記録であり、随行した歌人たちが天皇に代わって歌を詠むこともあった時代、
さらに「東歌」「防人のうた」のように雑多な歌が残された時代、でした。
ですから、記紀のあとの、漢文ではなく「万葉仮名」が使われて、のちの平安時代の「かな」文化へと移行する時期の、貴重で雑多な記録、と考えることもできるでしょう。
万葉集にみる「もの語り」
記紀が漢文でかかれた公の記録ならば、万葉集は「万葉仮名」で書かれた「私」の記録です。
編者もはっきりしていません。
・・・が、だからこそ、今、歴史が、生きた物語の一幕となって再構築されることが可能になっているのです。
たとえば「壬申の乱」
天智天皇、(のちの)天武天皇、額田王が登場する物語。
多くの「叙景歌」で歌われる、恋故に死を選んだ乙女たちの物語。
防人の嘆き。
記紀の記録以上に「人」の物語として浮かび上がる万葉の時代。
この和歌集が、やがて「歌物語」となって在原業平伝説をつくり、さらにそこから光源氏が生まれる、と思うと、『万葉集』がその後の日本文化に与えた影響の大きさに改めて驚きます。
その根底には『万葉仮名』を生み、のちに「ひらがな」を生む、日本文化の独自性があるでしょう。
中国伝来の「漢字」という文字を日本独自の「かな」に変えてしまう日本文化。
この独特の力が日本固有の文化を育て、日本人のバックボーンとなって今に通じているのではないでしょうか?
日本人の根底にあるのは、たぶん、独自のものを作ろうとする応用力。
学んだものから、必要なものをピックアップして、別の体系を作り、そこに新たなものを作っていこう、という精神はきっと変わらず、今に通じているのだろうと思います。
Originally posted 2020-06-03 00:17:29.