山上憶良・・・万葉の「貧窮問答歌」の作者

万葉集はいわゆる「記紀」時代、日本書紀や古事記の時代に繋がる空気が大きく残っている時代の歌集といえます。

特に初期の「額田王」や「天智天皇」の歌には個人の思いというよりも、民衆の思いというか、ある種、仲間内に共通する思いのようなものを歌った歌が多いように思われます。

  • 熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗(の)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出(い)でな (巻1・8)・・・額田王
  • わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ」(中大兄皇子天智天皇)

まだ「言霊」が信じられていた時代。

祈りと歌が繋がっていた時代。

歌は個人のものではなく、いわば共通の祈りの言葉でもあった。

それが万葉の歌ではなかったか、と思います。

 

 

山上憶良・・・国司として赴任した地の民の生活を詠んだ歌人

 

 

山上憶良というと、子供がいて貧しい生活を詠んだ人、というイメージが強いと思います。

が、憶良自身は貴族でしたし、「遣唐使」として唐に行き、のちに「筑前守」として九州に下ります。

その歌風は

「仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。」

とされています。(ウィキペディアより引用)

で、有名な「貧窮問答歌」とその意味はこちらを見てください。

万葉集 現代語訳 巻五雑歌892・893貧窮問答歌

 

万葉集の時代は「長歌」と返しの「反歌」(短歌)の時代であり、長歌は主に情景の描写に使われています。

その長歌に対して「受ける」または「まとめる」役割をしたのが「反歌」(短歌)でした。

この長歌の反歌はこれ。

世の中を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 

「やさし」は優しいという意味ではなく、「つらい」という意味です。

ですから、この反歌は、

この世の中をつらいとも
厭わしいとも思うけど
鳥ではないので飛び立って
逃げ出すこともできないよ(上記、貧窮問答歌参照)

という意味になるのです。

この時代にはまだ技巧らしい技巧はなくて、情景描写も率直ですね。

 

 

憶良の系譜は受け継がれず・・・

 

 

「万葉集」は、のちの和歌集の原点ではありますが、編者がはっきりしていません。

最も多くの歌が掲載されている大伴家持であろうと言われています。

また家持の歌の影響は大きく、古今和歌集、新古今和歌集などの勅撰集にも家持の影響を受けたいわば「雅な」歌が多く収録されています。

憶良はそれに対して、「貧窮問答歌」にも表れているように貧しい人々を国司として間近に見て、社会の矛盾を疑問におもい、嘆いてもいて、「社会的」歌人とも言えるでしょう。

 

また、家持が先輩歌人として憶良を尊敬していたことも分かっており、家持によって憶良の歌が万葉集に残っている、と思うと、やはり嬉しいと思います。

 

平安時代になると、そのような和歌の文化を継承した国司階級は、家族を都に残して赴任したために、残された子女は「都」しか知らず、視野がせまくなったのは仕方ないことかもしれませんね。

 

しかし、家持的な抒情的な「短歌」がのちの主流となって、万葉集の特徴でもあった「長歌」は姿を消し、さらに神に捧げる「言霊」的な「王者」としての「祈り歌」的な側面も次第になくなり、平安時代の貴族の恋を主に歌うものに変化してゆく中で、「国風文化」が築かれてゆくことになってゆきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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