感染症の歴史・日本の場合・・・「天然痘」

感染症の歴史・日本の場合・・・「天然痘」

この4人とも737年に死亡しています。

死因は天然痘といわれています。

奈良時代天平の頃に天然痘が大流行しました。

この時代といえば、聖武天皇と光明皇后で有名ですね。

日本史に欠かせない『藤原氏』はこの後しばらく歴史の舞台から消えることになります。

四兄弟の死後政権を握ったのは橘諸兄で光明皇后の異父兄です。

藤原四兄弟は光明皇后にとっては異母兄弟でした。

つまりの四兄弟も光明子も藤原不比等の子供だったのですね。

橘諸兄の父は『美努王』で皇族(敏達天皇の後衛です)だったのですが、臣籍降下して橘姓となりました。

橘諸兄は、天然痘によって上位の貴族が亡くなって政権を握り、聖武天皇を補佐しました。

聖武天皇の娘、孝謙天皇が即位すると、寵臣藤原仲麻呂が勢力を強め、諸兄の息子の「謀反説」などが出ましたが、諸兄は争わずに辞職しました。

 

 

そもそも「天然痘」とは?

 

 

日本では「疫病」についての記録を残すことになっていて、その記録は『続日本紀』にあって、流行した疫病が「天然痘」である、とされています。

当時は「痘瘡(もがさ)」と呼ばれていました。

それは、735年(天平7年)、大宰府・九州北部で発生したと記録されている。流行の感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病を移された1人の漁師という説もありますが、「遣唐使」「遣新羅使」という説もあります。

「遣新羅使」が派遣された時、その一行が九州を経由し、平城京に帰還したので、天然痘は日本全国に、身分を問わずに広まって多くの犠牲者を出したのです。

天然痘の流行は735年から737年に及び、犠牲者は100万人から150万人に及んだとされています。

天然痘は10日程度の潜伏期間ののちに発症し、悪寒、発熱、頭痛といった症状から始まります。やがて顔や手足を中心に発疹ができ、化膿してかさぶたとなります。

かさぶたが落ちた後も「あばた」が残りました。発疹は体の表面だけでなく内臓にもできるので、最悪の場合呼吸困難に至りました。

日本では「天然痘」は伝染病として恐れられながらも定着し、この時ほどのパニックにはならなくなりました。

(1977年ソマリアでの発生を最後に人から人への感染例は無く、1980 年5月WHO は天然痘の世界根絶宣言を行いました。)

 

 

当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされると見なす風潮があり、天然痘の流行に個人的な責任を感じた聖武天皇は仏教に帰依して東大寺や奈良の大仏の建造を命じたほか、日本各地に国分寺を建立しました。大仏を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったと言われています。

この天然痘はその後も何度も流行し、多くの死者や失明者を出し、顔にあばたを残す人も多かったのです。

(伊達政宗の右目失明、豊臣秀吉や吉田松陰は顔にあばた、など)

 

「種痘」という予防法が確立し、天然痘は根絶しましたが、

天然痘は、人間に感染する感染症で人類が根絶できた唯一の例であることを忘れてはなりません。

現在でもワクチンは各国で備蓄されています。(テロ対策のため、とか・・・)

 

 

非常に危険なウィルスとして、天然痘ウイルスの他、エボラウイルスなどの出血熱ウイルス、ペスト菌、炭疽菌、ポツリヌス菌、などが今も指定されています。

 

人類はまだまだ多くの未知のウィルスとの闘いを続けなければならないでしょう。

 

 

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