日本人の死に方・・・「殉死」

「殉死」というのは主君の死に殉じて死ぬことです。

有名なのは明治天皇の崩御に際して殉死した乃木希典大将でしょう。

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大葬が行われた日の午後8時頃に自刃しました。64歳でした。

このとき妻・静子も自害しました。

その遺書で、これは、

「西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である」と述べられていました。

 

 

乃木希典の経歴と人物

 

乃木希典は長州藩の出身です。

Maresuke Nogi, 近世名士写真 其1 - Photo only.jpg

薩摩藩出身者がのちに海軍に多かったのに対して、長州藩は陸軍に多く、このことは、海軍の合理性、陸軍の観念性といったそれぞれの思考の特徴にも繋がることになります。

西南戦争に従軍、のちにドイツに留学。

帰国後、日清戦争に従軍。中将に昇進、華族にも叙せられ(男爵)ました。

その後、台湾総督を経て,日露戦争に従軍。

このとき大将就任・第3軍司令官任命、となって、「旅順要塞」攻撃の司令官となったのです。

この旅順攻撃は多くの兵の犠牲と、予想外の時間がかかり、司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、司令官の乃木と参謀の無能を批判しています。

が、「坂の上の雲」は日露戦争の海戦に勝利した参謀秋山真之の物語であり、自然、東郷平八郎や、大山巌といった海軍畑の人々の記述が多く、その分、陸軍には厳しい書き方がされた、という側面もあったと思われます。

 

乃木と要塞司令官ステッセリとの会見は水師営の会見といわれます。

ここで、乃木は、敗れた敵将であるステッセリを名誉の武人として遇し、その態度が世界的に賞賛されたのでした。

さらに乃木の第3軍は奉天での戦いにも参加。これも一種の消耗戦になりましたが勝利して、帰国。

いちやく凱旋将軍として大人気。

しかし本人は多数の死者を出した罪を償いたいと望み、明治天皇によって遺留されます。

さら天皇の命によって学習院の院長に就任。

昭和天皇の養育に当たったのでした。

 

乃木は武人として人格者として尊敬される存在でした。

その彼が「殉死」という道を選んだことは、世界に衝撃を与えましたし、国内では若い人達から、前近代的である、として批判もされました。

軍人としての評価はともかく、人物としては人格高潔な武将として高く評価されていた、と言えるでしょう。

その意味で、彼が責任を感じ苦しんだのはやはり旅順において多くの戦死者を出してしまったことだと思われます。

西南戦争の件が遺書に残されていたことには、やや違和感があります。

ただ、旅順の関係者が責められるのを避けたために、古い西南戦争がもちだされたのか、と考えれば納得はできます。

 

 

「殉死」という死に方

 

 

明治天皇の崩御は、明治という時代の終わりだったと言えます。

乃木的な「武士」もまたこの時滅びた、といえるのではないでしょうか?

この後の大正時代はデモクラシーの時代でもあり、古き日本との決別の時代でもありました。

従って、「殉死」という概念も前近代的なものとして批判され、次第に「殉死」は過去のものになり、やがて消えてゆくことになりました。

 

殉死にあたってはもちろん自刃、すなわち「切腹」が行われるのですが、乃木の場合、

「まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。」

とされています。

切腹の作法として、十文字に割腹する、というだけで、かなりの苦痛と相当の精神が必要であって、その後「介錯」無しで、自ら絶命するためには相当の覚悟がなければならず、それは武人としての生き方を通じて初めて得られる境地でもあったでしょう。

 

最後の「殉死者」が乃木希典であったことは、そういう武人が明治の終わるときに存在していた、という意味では歴史の幸運と言えるのかもしれませんね。

 

Originally posted 2020-04-23 20:31:40.

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