『情死』
つまりは「心中」です。
まあ、愛し合う男女がいろいろな理由でこの世では一緒になれない、だから手を手をとって共に死ぬ、ということです。
江戸時代前期の近松門左衛門の作品が特に有名です。
近松は「曽根崎心中」「心中天網島」という題名の人形浄瑠璃の作者です。歌舞伎にもなりましたが、この江戸時代、特に「元禄」から「享保」の頃は、人形浄瑠璃がさかんで、その作者として近松門左衛門は第一の人気でした。
「曽根崎心中」「心中天網島」は実際の事件をもとに書かれたものですから、いわゆる「心中」ブームが起こりました。
それを取り締まる幕府の姿勢も厳しくなったのでした。
Contents
太宰治の「心中」
近代では作家太宰治の「心中」がもっともよく知られているのではないでしょうか?
太宰治は
昭和23年(1948年)6月13日に東京・玉川上水で入水。
遺体発見は6月19日、太宰の誕生日。
「愛人:山崎富江と心中、と発表されましたが、実際には富江による「無理心中」ではないか、との疑いが残り、はっきり「心中」とは言い切れないようです。
⇑ 愛人「山崎富江」
太宰は自殺未遂や、心中の失敗で自分だけが生き残ったり、ということを経て、5回目で「自殺」に成功したわけですが、実は「成功」ではなく無理に心中させらたのではなかったか、と私は思っています。
・・・が、それもまた良し、という気持ちだったのかどうか、定かではありません。
坂口安吾は太宰と共に「無頼派」と言われた作家です。
その彼が「太宰治情死考」という文章を残しています。
こちら。
坂口らしいある意味饒舌な文章ですか特にこの部分
「太宰の死は情死であるか。腰をヒモで結びあい、サッちゃんの手が太宰のクビに死後もかたく巻きついていたというから、半七も銭形平次も、これは情死と判定するにきまっている。
然し、こんな筋の通らない情死はない。太宰はスタコラサッちゃんに惚れているようには見えなかったし、惚れているよりも、軽蔑しているようにすら、見えた。サッちゃん、というのは元々の女の人のよび名であるが、スタコラサッちゃんとは、太宰が命名したものであった。利巧な人ではない。編輯者が、みんな呆れかえっていたような頭の悪い女であった。もっとも、頭だけで仕事をしている文士には、頭の悪い女の方が、時には息ぬきになるものである。
太宰の遺書は体をなしておらぬ。メチャメチャに泥酔していたのである。サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。
太宰は口ぐせに、死ぬ死ぬ、と云い、作品の中で自殺し、自殺を暗示していても、それだからホントに死なゝければならぬ、という絶体絶命のものは、どこにも在りはせぬ。どうしても死なゝければならぬ、などゝいう絶体絶命の思想はないのである。作品の中で自殺していても、現実に自殺の必要はありはせぬ。」
ずいぶん長い引用になってしまいましたが、つまりは太宰は酔っていたのだ、という結論のようです。
ただ、それもまた、彼らしい、と思えたりもするので。
桜桃忌
⇑ 三鷹禅林寺に太宰の墓があります。
遺体が発見された6月19日は太宰の誕生日でしたが、この日を「命日」として「桜桃忌」と名付けられたのでした。
「桜桃」とは、太宰の作品の題名であり、死の直前に書かれた短編です。
この「桜桃」つまり「さくらんぼ」の美しさが太宰の生きざまに相応しい、という意味で、同郷の作家、今官一によって名付けられたそうです。
また、三鷹禅林寺には森鴎外の墓があり、太宰は生前、鷗外の墓の向かいに墓を建てることを希望していたこともあって、ここに墓が建てられました。
森鴎外を尊敬していたから、ということですが、そこに一種の傲慢さを見るのは私だけでしょうか?
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」とヴェルレーヌの詩から引用した言葉を太宰は「葉」という小説で用いています。
その「不安」を抱え、生きた太宰に対して、鷗外は明治の文豪として知られ、その生き方は太宰とは反対の様に思われます。
その二人の墓が向かい合っているという皮肉。
いえ、それを「皮肉」と感じるのは違うのかもしれませんが。
この寺には太宰の2度目の妻であった石原美知子も葬られています。
彼女は平成9年に85歳で亡くなっています。
「桜桃忌」は最初は太宰と交流のあった作家たちの集まりでしたが、現在では多くの太宰ファンが訪れ、太宰を偲ぶイベントも行われています。
禅林寺はJR三鷹駅の南にあり、三鷹駅から徒歩で10分ほどのところです。
情死とは
『情死』すなわち「心中」というのは江戸時代にブームになったもので、「江戸」という時代の「遊女」の出現と絡み合っているように思えます。
その「遊女」を愛してしまった男が義理や金銭上の不義理などによって追い詰められ、ついには女とともに死ぬ決意をする。
「浄瑠璃」では特にその「道行」を詳しく描くことで、二人の気持ちを確認してゆく流れになり、死のほかに方法がない悲しい定めを強調する作りになっています。
こういった男女の死がこの時代には流行ったのでした。
背景にはそれぞれの立場や窮状を抱えつつ、そのしがらみから自由になりたいという願望があったからこそ、多くの人の共感を呼んだと言えるでしょう。
ただし、太宰の場合はもっと個人的なあるいは「破滅的な」または「無頼的」な心情が大きかったでしょうし、結局は「常識的」かつ「健康的」な生活ができなかった結果が生んだ「死」と言えるのではないでしょうか?
太宰以後、「情死」というのはあまり聞かない言葉になった気がします。
人はやはり「ひとりで」生まれ、死んでゆくのが自然なのだろうと思います。
Originally posted 2020-04-23 00:57:16.