「大嘗祭」(おおなめさい)とは?・・・新嘗祭と大嘗祭

新嘗祭というのは、その年の新たな米の収穫を祝い、それを食べる儀式です。

 

新米を神さまに捧げ、そのあと「神人共食」し、「神人合一」することが、大きなポイントです。

つまり、神さまと一緒に食べることで、神さまの霊的な力と一体化することか、日本の神祭りの基本的な目的なのです。

 

 

宮中儀式としての「新嘗祭」

 

 

「新嘗祭」と言われたのは宮中の儀式だけです。

天皇が新米をお供えし、神と一緒に味わうことで、「天孫降臨」神話を確認する儀礼だったのです。

なにしろ、アマテラスからの「天孫降臨」ですから。

日本神話から連なる唯一の家系が天皇家です。

ここにこそ、「天皇」の血統、もしくは「系図」の価値あります。

現存しているのですよ。神話の世界からの脈々と続く子孫が!!

ですから、天皇は唯一の、 「神」と「人」とを結ぶ存在でもあるのです。

卑弥呼がそうであったように一種の「シャーマン」と言えるかもしれませんね。

ただし、代々の天皇が優秀なシャーマンであったというような記述がありません。

つまりはその血統が唯一の価値であり、天皇と言われる人の個人的な資質は何の関係もないのです。

 

また、皇太子が、新たな天皇となるときの「大嘗祭」は、「新嘗祭」の流れをくむ儀式で、天皇一代で一度だけの特別な即位儀礼です。

 

天皇の役目というのは、宮中における「神事」にあります。

祖先にあたる日本神話の神々に対する『祭り事』を行うことが天皇の職務であり、象徴とか、対外的な外交とかは、さほど重要ではありません。

 

そうした『祭り事』を通じて国の安泰を祈ることこそが、天皇家に課せられた、いわば先祖代々の役目です。

また、天皇家こそが、それができる系譜を持ち、その系譜の存在が、天皇を天皇たらしめているのです。

その基本を忘れてはいけません。

 

雅子皇后がそこを理解できなかったのか、理解する気がなかったのか、わかりませんが、自分の寄って立つ場所をきちんと理解するするべきでしょう。

 

そこには、伝統的な「おすべらかし」「十二単」があり、古代からの神事があります。

 

 

日本神話における「神」に仕える、ということ

 

 

ここに天皇の本質があります。

だからこそ、神話の神々の子孫である、という理由づけが必要ですし、誰でもがその職務を果たせるというものではありません。

歴史によって選ばれた人として天皇は存在しています。

それを否定することもできますが、その時、日本という国は大事な本質を失うことになるでしょう。この国の独自性は、神話の時代にすでに形づけられていた独自の知性と感性が基礎になっているのです。

仏教伝来の前、平安時代の教養以前、独自の文字すらなかったころにも芽生えていた歌の心。

それが万葉集に残っています。

山上憶良は、子どもをいとおしく思う心を、名もない防人は、妻や恋人への思いを、歌っています。

まだ、五七五七七ではなく、五七五七五七と続く長歌の時代です。

形は中国伝来の文字ですが、その心は日本独自のものです。

 

日本神話の随所に、まだ仏教に出会う前の、シンプルな「太陽崇拝」や、天国も地獄もない、因縁もない、もっと「死」を物としての肉体の滅びと捉える合理性を見ることができます。

イザナミの住む「黄泉の国」は、生者の世界と岩戸一つ隔てたところにあるのです。

その素朴な世界観がいまなお、日本人の心に深く浸透しているように思われます。

それが日本独自の神話を素として、生活の習慣ともなり、伝統ともなって生き続けているのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

Originally posted 2019-12-13 10:26:50.

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

Menu

HOME

TOP