神道と日本の暮らしの深い関係。

日本の暮らしでは、例えば「初詣」例えば「祭り」例えば「お宮参り」

こういうものが、当たり前に伝統的な行事として定着しています。

 

これらは、古事記に見られる日本の神道と深く結びついているのです。

 

 

 

日本人が持つ「八百万の神」という概念は、一神教とは明らかに異なる、いわば自然崇拝であり、山に、川に、海に、それぞれの神が居るという、穏やかな共存を許している日本人のある意味非常に大雑把な感覚を形成しています。

 

神道は一つの宗教というよりも、生活に密着した習慣になっているのです。

 

だからこそ、日本人にとっては、おそらく感覚というよりは理念的な「宗教」を持たずとも、「八百万の神」という子どもの頃からの伝統に守られていれば安心である、という、穏やかな、感覚的な共通の認識が、抑止力となって、一神教へののめり込みを抑えているのではないかと思われます。

 

日本の暮らしに息づいている神道、というものについて、宗教というよりも、習慣という観点から考えてみたいと思います。

 

 

八百万の神とは?

 

 

単純に、自然崇拝、つまり自然を恐れ、自然を敬ってきた結果、自然の中に神は居るとする感覚が「八百万の神」の存在になってきたのです。

これは「神道」の教えというには、あまりに自然な感覚であり、おそらく多くの人は、ことさら神道を学んだ、という記憶すらないでしょう。

もちろん、こうした感覚の根底には、古事記や日本書記、あるいは昔の「神道」の教えがあるのでしょう。

しかし、今、自分から学ぼうとしなければ、そもそも神道を学ぶ機会さえ無い状態なのです。

 

学ばずとも、神に存在が感じられる場所やもの、即ち、美しい山、奇妙な形の岩、年を経た巨木、

時に氾濫する河川、などに神の存在を見て、敬い大切にしてきたのです。

あらゆるものに、人知を超えた力がある、として、八百万の神が敬われてきたのです。

 

 

神社の成り立ち

 

 

山、大木、大きな岩などを祀るために神社ができ、神聖な場所として区別し、時に神を招いて祭りを行う場所が設けられるようになりました。

その場所は聖域とされ、鳥居は神の場所と俗界とを分けるために設置されました。

 

神社の境内には、御神体が祀られる本殿、参拝する人を清める手水舎、社務所、参道、摂社・末社というゆかりのある社があります。

 

境内には、他に、石灯籠などが置かれ、注連縄が張られ、神の領域を守っています。

 

狛犬もそうですね。

 

邪気を祓い、神社を守るために、鳥居のそばに置かれることが多いようです。

 

まあ、何にしろ、神社は、神に対面する為の、穢れのない清浄な場所なのです。

 

 

参拝の作法

 

 

鳥居をくぐると、そこは神の領域です。

ですから、鳥居の前で、帽子を取って一礼してから、鳥居をくぐります。

そのあと参道を歩くのですが、このとき真ん中を歩いてはいけません。

真ん中は神の通り道だからです。

参道は端を歩くと覚えておきましょう。

 

参道の途中に手水舎(てみずや)があります。水をたたえた水盤と柄杓が置かれています。

右手で柄杓を取って水を汲み、左手を清めます。

次に柄杓を左手に持ち替えて右手を清めます。

もう一度、柄杓を右手に持ち、左の手のひらに水を受け口を注ぎます。

そして左手を清め、柄杓を垂直に立てて流れる水で洗い清めたら、元の場所に柄杓を伏せて戻します。

 

心身を清めてから拝殿に向かいます。

拝殿の前の賽銭箱に賽銭を入れ、吊るされている鈴を鳴らして拝礼をします。

 

「二拝二拍手一拝」即ち、二度礼をし、二度柏手を打ち、一度礼をするのが一般的な作法です。

参拝後、おみくじを引くことも多いですね。

神社の境内には、おみくじを結ぶ木があって、結んで帰る人が多いようですが、持ち帰ってももちろん良いのです。

 

 

まとめ

 

参拝後、お守りを購入する人も多いですね。

厄災から身を守ってくれるお守りは、小さいながらも、神の霊力が宿っているものですから、大切にしたいものです。

 

神社は清められた明るい場所、というイメージがあります。

 

昔の人の素朴な自然崇拝のイメージなのか、古事記に見る陽気な神々のイメージなのか、分かりませんが。

俗界とは切り離されている場所だからでしょうか?

自分もなんとなく清められたような気がします。

そういう気持ちが持てる場所が身近にあるのは嬉しいものです。

 

 

 

 

 

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